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ちょびっとだけ改変
●○●○●○●○●○● 恥ずかしくなんかないぞ 何でも言ってごらん ■フリーコメントスペース■ ※メールアドレスはこちら※ ぎんたまげ@excite.co.jp (太字をローマ字変換して下さい) 気まぐれに放り込んでます ◎たまげあんてな◎ カウンタ041115ヨリ設置 ライフログ
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※キャラ論テキスト、チラシの裏的に公開…の前に。 参考文献の一つに、空知英秋氏と宮藤官九朗氏との作風の共通点を端的に気付かせてくれたものがあったので、これをまずイントロとして持って来ました。キャラ論そのものではないですが、この作家二人からの、受ける印象の共通性から述べていこうと思います。 宮藤 官九郎=通称クドカン。 今までドラマも映画も脚本までしか手がけていなかったが、 初監督での最新作「真夜中の弥次さん喜多さん」が公開前から話題を呼んでいる。 舞台から叩き上げてきた方のようですね。ついでに↓ ※近影アレ…普通だ… いや、書店で彼の著書をざっくり眺めていたんですがね、 何ですか、この開けっ広げなアホ面は。 第一印象からしてこの強力なアホオーラ。 身も心も神の域です。素敵杉。 やっべ、惚れそう。 でもって、なんか空知氏とよく似てるっていわれているようで。 私はTVドラマとかに疎いんで、つい最近まで「クドカン」って何?な状態なわけでしたが、ふと思い立って調べていくうちにヤッベ、ハマりそうになりました。 でも似てるって何?え?作風?ドコ? 観てねーからわかんネーヨ!! ピンポン見たけどピンポン見ただけじゃどうにもなりませんでした。当たり前か。 とか悶々としていた訳ですが、つい最近、その真相をやっと理解いたしました。一見、あんまり関係ない本の内容からですが。読んだ人なら分かると思います。とりあえずその本ってのがコレです。↓ キャラクター小説の作り方 ※古本屋で入手しました。挟まっていたレシートは丁度一年前でした。 オタ業界のカリスマ大塚英志の本です(2ちゃんじゃ評価がバッサリ割れてるようですが)。ノウハウ本ってよりは、盲点をついてくれた本として興味深く読破できました。自分なりに、キャラクター論まとめようと思った発端にもなっています。(前座とあるのはこういう事情からです) この本に、宮藤官九朗脚本TVドラマ「木更津キャッツアイ」について言及されているわけなのですが、それが丸ごと空知英秋作品にも当てはまる内容なんですよ。引用しながら一文で表してみます。面白みの秘密はズバリここにありそうです。 「作り込まれた細部が、物語のテーマを暗示するものとして正確に散りばめられている」 しかし、これは一体どういうことなのか。順を追って説明していきましょう。 まず、気をつけたいのは、”物語における「細部」については、二種類ある”ということ。本書ではこう述べられています。 ・一つは作品全体に連なっていくもの ・もう一つはそうではないただの「細部」でしかないもの 勿論、前者が必要な「細部」なわけですが、最近は後者の方に意識を向け過ぎて、中核をなす「お話」の内容自体が散漫になっている、という警告も発しています。「作品そのものに作用しない細部」である後者の具体例として、漫画で言えば画質や線の量、デザインの細部などを上げています。ドラマや映画も含めて言えば、物語への暗喩や、伏線やミスリードにすら絡まない無駄な「細部」の設定やシーンが多すぎる、ということらしいです。 私は、コレは漫画以外で言えば、TVドラマに顕著に見られる傾向だと思います。大塚氏は映画も含めて述べていますが、二時間かそこらで物語をみっちり見せるためには、無駄は極力省かれてしかるべきなのが「映画」であるべきかと。TVドラマは一話見逃しても視聴者が離れないよう、わざと話の骨格は単純で緩やかになるように構成する、とも聞きますし。(っていうかコレも予備校講師から聞いた受売りですけど)まあ、とどのつまり、良作駄作に関してはジャンルは関係なくなりますけどね。 じゃあ、「銀魂や木更津キャッツアイが実践している物語の細部ってどの辺よ?」って話になりますね。「ギャグや演出がトリッキーなだけじゃね?」確かに、マニアックなネタや、楽屋オチに繋がったりするところとか、世界観を放棄した逸脱ギャグなど、単純に見ればこれらがニ作品の共通点でもあり、面白さの要素でもあります。大塚氏の書でも“細部に満ち溢れたギャグ、その何割かは80年代のサブカルに言及するもの”とも木更津キャッツアイが述べられてあり、これも銀魂との共通点ともいえそうです。 おや?でもコレだけだと… 「テーマを暗示する細部って言うか、ニ作品ともギャグメインだしテーマとかなくないか?」ってな話になりますね。しかし大塚氏は「木更津キャッツアイ」の根底テーマをこれらの細部から見事に読み取っています。私は前述したようにこのドラマを見たわけではないですが、孫引きて感じたままに、自分の言葉で言い換えれば、木更津キャッツアイが伝えたかった事は「モラトリアムで遊んでいてもいつか終焉が来るのが現実」ということだったのではないかと思います。 モラトリアム=主人公ぶっさんや他のキャラクター達が、箱庭的世界でギャグをかましつつ活き活きとルーチンを過ごしている様子。先へ進まなきゃいけないのを、楽しい時代は忘却させてくれている。それが、ギャグや素っ頓狂な展開で見せている、ミスリード的な、一見テーマの無い状態なんだと思います。ある意味コレが「表」的?そして、終盤に向かって直面する生と死の問題で初めて「裏」を、人が必ず迎える壁や終焉というシリアスな現実を突きつけていて、ここにテーマを見い出せているのではないかと。 つまり、大真面目に貫いているテーマは存在していたんですね。野球関連用語やギャグやネタにくるまれて、一本の芯が確実にあった。核となるテーマに繋ぎとめられていたギャグの連携プレーが、作品に面白さと深みを与えていたわけです。同じ事が他方、銀魂でもいえると思います。激変する江戸の街を舞台に、侍魂にかこつけたり、ダメな人間性をギャグにしながら、どんなに無常な現実の中でも変わらない人々の性や心=人情が示す普遍の想いを、「絶対に折れないモノ」として絶えず訴えかけている。それが銀魂なのだと思います。 細部がテーマに繋がっている、テーマから細部が作り上げられている。 濃密且つ双方向的なギャグとテーマの相乗効果。 これが、二作品に共通性を持つ、真の面白さの秘密ではないでしょうか。 ※ついでにこの大塚氏の本では、HANAKOでの女性記者達の対談も引用してありました。「自分たちにしか分からない細部」が木更津の面白さのキモだった故か、視聴率の悪さは不遇としかいえない…、と語り合ってるところなんか、まるで何度もコレと同じような内容をカキコされた巨大掲示板の銀魂スレッドを見ているようでしたよ!銀魂は人気定着したけど。「ジャニタレでてるけど若い女の子には分からない話」ってあるのも、「新選組ネタだけど幕末ファンにはあまり関係ない話」的な匂いと似ていて、そこはかとなく暗示めいています※ ※以前「映画のピンポンで何となく共通点がわかった」とこのブログに書き残していたと思いますが、今改めて考察してみると、当時感じたそれは絶対的な共通点ではなかったと思います。作中の、ジュブナイルっぽさを表すシーンの演出を、同じ方法論で作っている箇所があった、というだけで。核心を突いた、絶対的な相似点とはまた別種のものかと思われます。 以上が大塚氏の著書から読み取った事実です。さらに次には、この「トリッキーギャグとテーマの連動性」の起源はどこから来ているのか、について突っ込んでいきたいと思います。ていうか、元はギャグやコメディからではなく「テーマや展開のオチに繋がる、伏線の多重構造」を散りばめてゆく手法から来ているとは思いますが。用語とか手法とか専門書とか読んでないからなんともいえませんがね。 ●前座のオマケ:憶測気味に作品研究・空知氏の基盤となるもの● なんかめんどくさくなっちゃんたんで先に言っちゃいますが、最近のTVドラマの名シナリオっていうのは、「脚本家が舞台経験アリ」の人が書いたものが多いんじゃないかなーって。でも殆どのTVドラマの脚本家が舞台出身だったりするんでしょうか。そうなると「舞台経験=神業的脚本能力に繋がる」って図式が当てはまらなくなっちゃいますね。スンマンセン。100%推論です。 「コメディやギャグの手法として、細部を“大量に”特化させ、一見無関係のように見せながらテーマに繋げている」なんでこんなシナリオ書いちゃうかってのはそういう思考回路=才能を持っているからであって、手法として学んだり伝達させる事は難しいようにも思えます。でも「舞台」という環境下でそういう発想法が培われていった、と仮定すれば、彼等の書く脚本の方法論が結構すんなりと飲み込めてしまうんですよ。 舞台というのは制限されているようでいて、実はかなり表現可能な分野が多彩でもあります。映画やドラマみたいに一からセットを組み直すことが出来ない分、想像力に訴えかけるような、演出や演技、そして脚本を求められます。CGや特殊効果は使いませんが、それが前提として受け入れられている分、想像できるものならなんでも自由なのです。漫画チックであってもよいし、水中やらSF空間やらを、演出と、役者の演技や言葉で一瞬で切り替えられる、当に「魔法」の場所なのです。 素舞台といって小道具が殆ど出てこない、ほぼパントマイムでの演技で全てを済ませるものもあったりします。そのような空間の中で、役者は物語の流れが止まらないよう、全身を使って終始演じなくてはなりません。舞台上では袖にハケる(退場する)までノーカット、ノーフェイドアウト。台詞がなくてもなんかなってなきゃいけないんです。台詞がないからっていきなり演技やめたら不自然でしょ? 私は、かつてサークル上がりの劇団に参加していた経験がありますが、役者ってのは他力本願の私にとってはめんどくさい代物でした。台詞覚えるのめんどくさい、役作るのもめんどくさい。立ち回り考えるのもめんどくさい。出番待ち時は寝てる始末です(例え本番でも)。テンション次第のダメな存在でしたが、演技がキマリ盛り上がってくると感じる、舞台と役者と客席との一体感は、そんな私にとってもかなり爽快でした。こちらのその様子がいい刺激になって、他の役者の演技の熱に拍車がかかったりもして、それはそれで楽しいものでした。 まあそうやって練習時には、脚本、演出担当者はそれぞれの役者のキャラを見ながら台詞を変えたり、シナリオを調整してゆきます。全体作業なので、個人の脳内には留まりきれない展開やキャラクタがポッと生まれる意外性の楽しさもあります。つうか一つの劇団に篭っていただけなので他がどうなのかは知りませんが。突拍子もない案も、自分の描いた脚本に収まるようにどんどん取り入れて完成させていく、そんなタイプのところでした。 舞台に立って演じる様を見ながら、脚本・演出サイドはキャラや台詞や展開に、隙がないように作る癖が自然と身についてゆきます。つまりは舞台内で完結している「細部」への目が行き届くようになるのです。役者は、テーマと言うよりはシーンの流れに沿って演じてゆくわけですが、破綻しない程度に、最大限そこが盛り上がりそうな自らのアイディアでもって即興に演じたりもします。「細部」への気遣いは役者の力も加わり、より大胆且つ繊細になってゆきます。「意外性が共振し、テーマやオチに向かって調和してゆく快感」を皆の手を借りながら、ここで体得するわけです。 集団で、各々の個性から増殖してゆく「細部」。 それを、テーマに向かって収束してゆくように纏め上げる脚本家、演出家。 こういう舞台での遡上が、「細部を活かす」脚本家を作る要素になっているのだと私は思うのです。それが、TVドラマ脚本に移行する際に力となっているのではないかと。 ここでやっと話を戻し、空知氏の作風について言及してみます。作中から読み取れるように、彼はどちらかといえば「舞台というよりはTVっ子」であり、TVドラマやバラエティの影響を強く受けているといってよいでしょう。しかし、私だけでなく、どこか“舞台的な匂い”を感じている方々も少なからずいると思います。それを「TVドラマ用にアレンジされた、舞台風の脚本」から何かを読み取ってきた、と仮定すれば、この謎は氷解します。 「舞台出身の脚本家」によく見られる、「細部への気の配り方」と、「チョイ役でも味のあるキャラクターの作り込み」がしてあるTVドラマ。先に脚本を立ち上げるので、舞台に比較すれば、あまり役者にいじってもらえないのですが、経験から自然と細部に気を配りつつ、舞台に比べテーマからは然程逸脱することなく「細部」を作り上げる事が出来ます。それがかえって、テーマを見失わない利点になっているともいえる気がします。 うすた氏との作風と比較すれば分かりやすいかも知れません。彼はかなり舞台からの影響を受けていますので、キャラ(役者)の勢いで話を魅せる趣向に優れています。舞台作品ってのは、モノや役者によっちゃ脚本は破綻しちゃう場合も多いので、細部の整合性よりインパクト!な脚本演出の作品が好みなのかも知れません。 ついでに言えば、生での客席の息遣いは、台詞のテンポの勉強にもなりますね。お笑い芸人は客席に受けるコツをライブ感覚から学んでいくものですし。そんな風にして、バラエティ番組からは製作の意図や、芸人たちの即興台詞の面白さも裏から読み取ってきていそうでもあります。台詞の掛け合いだけを見れば、喋くり漫才が大本の教本でしょうし。ていうか結局、アイドル以外、役者って殆ど舞台経験者?舞台から何を学んでいるかにもよるんですかね。脚本や制作の力もまた別物ですし。 もう一つ、蛇足として。そうやって影響を受けてきたと思われる空知氏が、実は本当にシナリオライターや放送作家志望だったのではないか、という事を想起させるものがあります。それは、秀逸だが漫画としては長すぎる、ネームの台詞回しに見ることが出来ます。間合いのとり方や、掛け合いの面白さは長所としても、やや冗長に見える膨大な吹き出しの数と文字の量。空知節として馴染んでしまったファン以外の読者にとっては、敬遠されがちな量です。 さらに気になるのが、句読点の代わりの様に、文節の間にスペースを空けている点。これは恐らく、声に出して喋らせるとここに息継ぎの間があるよ、という作者からのメッセージなのでしょうが、漫画文法としてはあまりいいものとは言えません。字面を流れるように読むためには、スペースを空けるぐらいならその部分は改行した方が懸命だからです。でもそうすると、「声に出して読むと子気味よい台詞」の字数が、吹き出し内に上手くハマらなくなるゆえ、苦肉の策なのだと思います。 しかし何故「漫画としての読み易さ」より「“声に出す”台詞としてのリズムの良さ」の方に傾倒しているのでしょうか。ネームを練る時は、声に出して喋っている様を想像しているから、その印象を重点において伝えたいから、といったらそれまででしょうが、漫画にも漫画のリズムがあります。コマ運びや構図の見易さには、それなりに十分配慮していると評価できるのに対し、一体如何してなのか、漫画としての台詞の、ベストなリズムを会得するまでは至っていないというか、気が回っていないようなのです。 細かく吹き出し内の文節を区切る=息継ぎとしての句点を示している。実は、朗読されることを意識して作成される放送作家の文章も、これと似たような傾向があるのです。彼等の文章は、妙に句点が多いとされます。それは息継ぎの場所と共に単語や文節の区切りを示し、誤読を招かないようにするためだそうです。声に出す事を前提にして読まれる文章は、句読点に「黙読するリズム」ではなく、「音読する際の道しるべ」を求められるのです。そういう意味での「読みやすさ」を重視するため、必然的に句点が多くなる、ということだそうです。 単行本の手書きの文章には読点「、」が見られず句点「。」のみの構成になっていますが、点があると喋り言葉のニュアンスが伝わりにくいために、敢えてこちらもスペースで単語や息継ぎの区切りを示していると思われます。つまり最終的に空知氏は、 「声に出して読んで欲しい銀魂」 と、思っているわけです。 …アレ?放送作家志望説は? ※年配の方がターゲットになる大衆小説も、句点が多いそうです。字が小さかったりして長文を瞬間把握するのが苦手と思われるための配慮だとか。これは目的が別ものですのでここでは除外させていただきます。 まあこんな感じで、彼等の作風の共通点を述べてみましたが(というかほぼ引用しただけですが…というか後半なんか違う事論じちゃってますが)如何でしたでしょうか。銀魂の面白さの正体が何だったのか、ご理解していただけたでしょうか。 クドカン作品、いつかちゃんと観ておきたいと思います。スイマセン。 …ていうか、キャラ論の前座としては長すぎですね… まあ、キャラ論自体もこの数倍以上になる見込みですんで… 生半可知識の疎さ丸出しの文章なので そのうち大幅に改稿するかも知れないです。 校正不十分版・御精読ありがとう御座いました。
by gintamage
| 2005-04-08 12:35
| 魂考~解析銀魂~
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